慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を美濃国を目指すが、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸に足止めされ、秀忠とともに合戦に遅参する。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許されたと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。
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関ヶ原の合戦の後に、老中となるが、所領の加増はなし。家康から遠ざけられた。また家康が冷徹であったとする根拠の一つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を、躊躇なく遠ざけたことをあげることもある。もっとも、康政が本多正信の権勢を嫌って、「老臣権を争うは亡国の兆しなり」との考えのもと、自ら離れていったとする説もある。
康政は、関ヶ原の合戦後も、館林藩10万石のまま留め置かれた。一説には家康から水戸に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、そして館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。家康は、康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。
慶長11年(1606年)5月14日に館林にて死去。享年59。長男・忠政は外祖父の大須賀家を継ぎ、次男・忠長は夭折。後を三男・康勝が継いだ。大正4年(1915年)11月9日、贈正四位。
法名:養林院殿前大守職上誉見向大禅定門。墓所:群馬県館林市楠町の善導寺。和歌山県高野町の高野山奥の院。新潟県上越市の榊神社は康政を祭神としており、康政着用と伝えられる具足や馬印などが所蔵されている。